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東北から初。香港証券取引所メインボードに上場した、ニラク・ジー・シー・ホールディングスの谷口社長に成功の秘訣を聞く(シリーズ1)

2016年8月3日   お知らせ

東北から初。香港証券取引所メインボードに上場した、ニラク・ジー・シー・ホールディングスの谷口社長に成功の秘訣を聞く(シリーズ1)


 

 

 

浅野) 本日はお忙しい中、我々にニラク様が香港証券取引所メインボードに上場した軌跡をお話しいただけるということでマカオから飛んでまいりました。全国のビジネスマン、企業家、そしてアントレプレナーの方々には凄い刺激になると思いますのでよろしくお願いいたします。

 

まずは、御社の出発点、原点からお話しいただけますか?

 

谷口社長) はい。どれだけお役にたてるか分かりませんが、お話ししたいと思います。

 

当社は、私の父が創業しました。茨城の南部で、初めてパチンコホールをつくったのが、どうもはじまりだったようです。その後、下館に2号店、3号店まで開業していくのですが、その間、父の親戚が全員父のもとに集まって、暮らしていたらしいです。

 

そこで、各々がいろんな仕事をしている間に、まあ皆で一緒に商売やらないかということで、親戚たちが集まり、みんなで力を合わせてお店を営んでいたそうです。父は自分だけ母と子供たちを連れて、郡山に来ました。郡山は、今では音楽の街になりましたが、当時は”東北のシカゴ”なんて言われていて大変な街だったようです。その街に初めて店を作ったのが1950年で、現在の創業の店になっています。

 

浅野) 実は私も福島の出身なんですよ。生まれたのも1949年ですから、谷口社長のお父上が創業なさった時期とほぼ同じで、すごくご縁を感じますね。

 

谷口社長) 私も福島市ご出身だと伺って、驚きました。

 

浅野) 私、ベトナムでご縁があってカジノ業界に入ったのが2010年なんですよ。

 

日本に流れてる情報が勉強すればするほど、経験を積めば積むほど誤った情報が多いということが理解できるようになってこれは何とかしなくちゃいけないという憤りにかられて、思えば生意気なんですが、「カジノジャパン誌」を買い取らせて頂いたんです。

 

しかし、ベトナムで事業をしながらでは、思うような雑誌を作れなくて一時休止していたのですがベトナムやカンボジアの事業でいろいろ辛酸をなめて、2014年からマカオでの起業を決意して、現在はマカオと日本を行き来しながら事業を展開していまして再度、新しい形で発刊することに至ったんです。

 

その時に、ニラク様の快挙を知ったんですね。もう、再発刊の日本での私とのインタビューはぜひニラク様にお願いするしかないと思って、本日を迎えることができたんです。

 

谷口社長) ご期待に沿えるかわかりませんが、私の方こそ光栄です。

 

浅野) 東北の福島県郡山から、香港証券取引所に上場なさってるのは御社だけかと思います。他の業界でも私の知る範囲では、東北圏にはないですし、これはもう快挙だと思うんです。なぜそれを志されたのか、どういう環境にいたら、それを志すことができたのか、お聞かせ願えますか?

 

谷口社長) 今から8年前に、創業者である父が亡くなりましたので、社長としては、私の兄が2代目、私が3代目社長となります。私の上にはもう一人兄がいて、その兄弟3人で、生前の父から受け継ぎ始まった会社です。

 

始まった頃は、様々なことがありまして、兄たちも相当苦労しながら事業を運営していました。そうしながらも、私は3番目でしたから、どちらかというと自由にやらせてもらえました。

 

今考えると、いろんなキャリアを積ませてもらっていたのですね。苦労は自分たちでするから、お前はこの会社を変えていけと言われた時、なにかこう、暗黙の兄弟の強い絆を感じずにはいられませんでした。これまでも、一つの枠にはまらない考え方で勝負させてもらえていたのだと思います。

 

当然、失敗だらけでしたけども、自由にやらせてもらえたという感謝の思いが、”これじゃダメなんだ”という、今、心に抱いている強い信念、というようなものにだんだんと変わってきました。そうした中、会社の改革をする、と決めて過去のしきたりや風習を、全部見直しながら、チェーン展開できる企業風土を会社全体につくってあげようと、その当時2代目の社長、兄から指示がありまして、一大革新プロジェクトを発足するに至りました。

 

現在ある全ての仕組みが、このプロジェクトから生まれたものです。その頃、株式会社日本リテイリングセンターのチェーンストア研究団体である、ペガサスクラブに加盟して、当時の幹部全員でチェーンストア経営を必死に学びました。

 

その中で、これから店舗数を増やしていくために、まずはオペレーションシステムが必要だと気づき、業界オンリーワン企業となるべく、全ての課題を絞り込み、ダイナミックかつ革新的に店舗における調査と実験をくりかえしながら、最高の支持率と効率を生み出す企業づくりを目指して、改革に取組みました。

 

これはパチンコにおける業態フォーマットの開発でした。大衆の普段の暮らしに変革をもたらす日常型のエンターテイメントを提供するために、売り方の仕組みづくりが必要でした。

 

①すべての判断基準をお客様視点から考え行動する
②改革は現場からしかできないと考え行動する
③お客様の声に耳を傾け、期待を満たし、それを上回るようにすること

 

このようなことから改革をすすめ、当時、私が担当したこの全社の業務改革が、少しずつ風土を変えるきっかけとなっていきました。こうして、社内に意識の変革が定着したころ、父が亡くなり、創業からの精神を引き継いでいる商売を、これまで以上にどう未来に繋げるかを考える中で、グローバル化が結びついてきました。新卒採用も、経験を積んできていていましたので、人材面でも厚くなってきましたし、彼らの将来の事も考えなければなりませんでした。

 

 

浅野) いつころから新卒採用をはじめたんですか?

 

谷口社長) もう22年前です。ですから、その頃の新卒たちが、育ってきて、いよいよこの会社で俺達に活躍させてくれ、という雰囲気が、業務改革というような場面に出始めて来ていました。「君らで新しいビジョンをつくるか?」と訊いてみたところ、彼らから「自分たちでつくってみたい」「ニラクの20年後のビジョンを作ってみたい」と言ってきたのです。

 

実は、その前に、2代目社長である私の兄が、5年ごとのニラク20ヵ年経営計画を作ってきていたのです。創業者である父は、生業・家業から企業へと続く道をつくり、その道を兄がしっかりと真の企業化をすることで繋ぎ、徐々に変革させる時代に向かって走り出し始めました。

 

それを見ながら途中で入った、当時の新卒の人達が刺激を受けているのです。自分たちが入社して10年たって、この20ヵ年経営計画が終わったら次の20年は自分たちがつくる20年だ、ということで、彼らが一生懸命活動を推進していきました。

 

浅野) その彼らは、最初のグループは何人くらいいらっしゃったんですか?

 

谷口社長) もう、当然新卒は人数少ないですから、5・6人です。ですから今、新卒1期生は2人、2期生で6人ほどです。3期、4期、5期生が今、大幹部になって残っています。彼らが手を組んで、次のニラクの新しいビジョンを作ろうということになりました。

 

ちょうど震災の1年前ですね。過去の延長線上ではない、まったく新しい論理を組み立て、その延長で線を引き直して考え、答えを出していくプロジェクトでした。彼らが中心となり、約1年かけて、全社員を各エリア毎に集め、全ての社員一人ひとりが「20年後のニラクと自分」を描き、何回ものディスカッション、プロセスを経て、全部集約していく作業を重ねました。

 

最終的にそれをまとめたものをビジョンとして制定しました。今から4年前に制定されたものです。ニラクの社員一人ひとりが描き、自分たちで進むべき未来を決めた、ということです。この4年前に制定されたビジョンが、第二次 長期経営計画として、実現に向けて今、進んでいます。

 

浅野) もし、よろしかったら、なぜ谷口社長は、そういう決意をして、これを実現されることになったのか、お尋ねできたらありがたいです。

 

谷口社長) 実は、出来上がったビジョンを見たときに、一番すごいなと思ったのが、大きく2つの志にまとまった、という点でした。1つは、パチンコ事業でとにかく日本一になろうと。つまり、日本一支持される、お客様から本当にお前の所が必要なのだと言われるようなパチンコホール企業になりたい、というのが1つの大きなくくりとしてありましたので、これはもう当然だろうなと。

 

そして、もう1つが海外事業、グローバル企業化を目指すものでした。本当に、バランス的にいうと、半々だったことが正直なところ意外でした。やはりこれを見ると、これからの日本のマーケットは少子高齢化、人口減少社会が進み、産業、人口、含めて、地方都市はこれから30年後、疲弊していくのは目に見えています。

 

そういう意味では、パチンコ事業もそうですが、これからの将来を見据えた新しいやり方を考えなくてはなりません。ここは変えていい、ここは変えてはいけない、ということを見極め、革新しながら、企業としての社会的使命を果たし続けなければならない、とあらためて強く思いました。私どもは、創業して三十数年後にちょうど100年になります。100年以上続く企業を創るための一つのインフラを整備するのが、おそらく私の仕事なのだろうという認識を持ちました。

 

その頃ダイナムさんが上場しました。日本の証券市場を見ても、なんとなく株価が上がったり下がったりしてはっきりしないわけです。待っていてもしょうがないと思いました。日本だろうが海外だろうが、まず上場のメリットを十分活かせるような企業体を絶対につくらなくてはならない。着手する場は、香港でしかない。そこで相談しに香港へ行ったのです。

 

当然ダイナムさんが業界の常識に風穴をあけてくれていましたので、パチンコ企業の上場そのものに対するハードルは下がっていると思い、その面では安心をしていました。ただ、私たちが上場した時は少し審査が厳しくなった時期だったようです。そのような意味では厳しい時に上場にチャレンジした事になります。

 

以下、シリーズ2に続く。
シリーズ2はこちらから

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