何度でも生まれ変わる神の名の都市
戦中、空前のブームに沸いたマカオが戦後に勢いを失うも再浮上し、歴代の国家主席から一目置かれるまでに成長した上で欠かすことができない要因。それはゲーミング産業の繁栄に他ならない。マカオの歴史においてゲーミングがアヘン戦争終戦時にはすでに一大産業であったことは前述した通りだが、20世紀に入ると絢爛豪華な装飾、ゲーミングテーブルの設置、「バカラ」といった新ゲームの採用など革新的アイデアを次々と打ち出し、長所を伸ばし続けることでマカオは虎視眈々と生きてきた。第二次世界大戦前には、ゲーミング独占営業権の施行、カジノ独占営業権を一社に集中することを決定するなど、常にゲーミングと治安維持のバランスを考えた施策を行っている点も見逃すことができない。戦後の1961年には、ポルトガル政府はマカオを「恒久ゲーミング特区」として開放し、カジノ及び観光業を中心に発展させる低税制地区に定めるなど、何賢が内政を掌握する以前からポルトガル政府もゲーミング産業を重視していたことがうかがい知れる。同年末には後のカジノ王スタンレー・ホー氏らが設立した澳門旅遊娯楽有限公司(STDM)が競争入札の結果新ライセンスを獲得し、約40年にわたってマカオにおけるカジノの独占を開始することとなる。
1999年の中国への返還が迫ると、マカオのゲーミング業界の風向きが変わり始める。金融都市としてアジア随一の隆盛を誇る香港に比べ、ゲーミング産業に頼らざるを得ないマカオ経済は、既存からの脱却が必要だと考えるようになったからだ。事実、中国当局の介入を招くと危惧した地元ギャングが、返還前に自らの利益拡大・確保を目論み抗争が激化すると、ポルトガル軍不在のマカオの治安は警察の管理能力を越え深刻化してしまう。観光客も激減し、返還前にイメージ低下を恐れた中国当局が最終的に人民解放軍を駐留させ鎮圧に努めるなど、「マカオ経済がゲーミング業界に左右される」ことは明らかだった。
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