ヨーロッパが憧れた東方
16世紀前半、当時海洋大国の列強として世界に名を轟かせていたポルトガルが海路で到着したことからマカオの歴史は始まる。ヨーロッパの東方への関心と憧憬は、13世紀半ばに建国されたモンゴル帝国によってユーラシアにおけるアジアの存在感が増大したことに起因し、マルコ・ポーロの『東方見聞録』や、プラノ・カルピニの『中央アジア・蒙古旅行記』といった書物からも当時のヨーロッパ社会のアジアへの好奇心をうかがい知ることはできる。
当時中国は、モンゴル人のキヤト・ボルジギンによって建国された元朝時代。最大の貿易港でマルコ・ポーロの記録にも描かれている「海のシルクロード」の出発点「泉州(ザイトン)」(現福建省泉州市)を中心に活気ある海上交易を行っていたが、15世紀の明朝時代に沿岸地域の治安維持のため海禁・孤立政策を施行するや海外進出は下火となり、急速に外洋海運は衰退の一途を辿ってしまう。
また、本家本元のシルクロードはアラブ人とトルコ人による寡占と規制の傾向が強まり、ヨーロッパ人の東方貿易は困難な状況に陥るようになる。このような状況下で世は大航海時代を迎える。
積極的に海外進出を推進したエンリケ航海王子の命令に従いポルトガルは16世紀に入るとインド・ゴア、マレーシア・マラッカなど主要な海港を次々と奪取していく。当然、マカオを含む中国南部沿海にもポルトガルの脅威は及び、明朝は1521年にポルトガル船の中国来航を禁止する。
ところが、度重なるポルトガルの圧力により、1535年に海上貿易関係の事務を所管する官署「市舶司」をマカオに設置。1557年にはポルトガル人のマカオ居住が正式に認可されるなど事態は急転していく。
領有権は明朝にあったため、マカオのポルトガル人はマカオとその周辺を管轄する香山県(広東省中山市の旧称)に地租・貢金を納めることと引き換えに、中国大陸における唯一のヨーロッパ人居留地としてマカオに錨を下ろすことができたのだ。
これ以後、マカオは航海者・宣教師・商人たちのアジア域内貿易を繁栄させるための「アジアの中の小さなリスボン」としての存在感を高めていく。