ポルトガルは中でもマカオを介した対日貿易に頼るところが大きかった。ポルトガルと日本の交易のみならず、当時戦国時代真っ只中の日本は国内情勢が安定せず中国との交易がままならなかったため、ポルトガルは日本と中国の商品貨幣の独占的な橋渡し役として大きな利幅を上げることが可能だった…徳川幕府のキリスト教禁止と鎖国政策が成立するまでは。
1639年、ポルトガル船の日本来航禁止。翌々年にオランダ人にのみ長崎・出島を利用した貿易が認められると、マカオの舵取りは一変する。
マカオは歴史上三度の危機を迎えるが、その一度目が日本の鎖国政策による方向転換であった。1640年に約4万人いたマカオの人口は、1700年になると約5000人にまで減少したと言われ、さらには新興国オランダの台頭により海洋貿易での利潤は減少していく。
17世紀半ばには要衝であったマラッカをオランダに占領されるなどポルトガル領地は狙い撃ちにされ、ポルトガルはマカオの強化を図るべく、初代総督フランシスコ・マカレニャスを赴任させるなど状況の安定に東奔西走しなければならなくなった。
同時にマカオでは赴任した派遣組と現地組の折り合いをつけるべく、現地主義を重視するため合議制の自治機関が設けられることになるのだが、その最中に中国は明から清へ王朝が変わる。清朝は中国人の出国と対外貿易を規制する「海禁令」を流布するが、王朝に貢物などを送るマカオに対しては「言葉も通じず、作物もできない地」と判断し、ポルトガル人の居留と交易を認可。現在展開される中国の一国二制度の原点がすでに垣間見えると同時に、マカオでは近代的かつ合理的な施策が一足早く構築されていくようになる。歴史が香港に光を当てる約150年前の話である。