1974年、ポルトガルでカーネーション革命が起こると、民主化に伴い当時所有していた全ての海外領土を放棄することが決議される。
翌年、ポルトガル政府はイギリスに遅れること25年、中華人民共和国を承認する。その際、反植民地主義の観点からマカオの返還を中国に申し出るも、中国から謝絶されるという想定外の事態が起こる。
そこでマカオを「特別領」として再編成し、行政上及び経済上の自治は中国に任せることを認め、ポルトガル軍はマカオから撤退する。以後マカオの安全は警察力のみで維持することになるわけだが、すでにゲーミングの一大拠点となっていたマカオの治安を警察力だけで抑えるのは困難であった。中国、ポルトガル両国から「いらない」と叩きつけられたマカオは、発展著しい香港とは対照的に歴史に置き去りにされるという三度目の危機を迎えてしまう。
中国とポルトガルの国交が正式に樹立された1979年に、中国が主権を持ちポルトガルが統治する領域、すなわち大家は中国であると承認されると、後は返還日時をいつに定めるかということだけが両国の間に横たわる問題となった。イギリスが将来にわたる統治を希望した香港とは異なり、ポルトガルは当初からマカオを手放すつもりだったため返還交渉そのものは順調であった。
しかし、欧米諸国からタダでマカオを中国共産党独裁政権に渡したと後ろ指を指されたくなかったポルトガルは、それなりの抵抗を示し2000年以降の返還を求めたが、1987年に「1999年にマカオを中国に返還する」ことが決定する。
このとき当時の国家主席・鄧小平はポルトガルのことなど一切眼中になかったという。真に見据えるべきは、「いらない」と判断された後もマカオの内政や財政を着々と築き上げてきた各界人士にこそ注意と敬意を払うべきであると。香港とは違い、両国から見放されたマカオの発展を担っていたのは、他なからぬ戦時中からマカオ経済を支え続けてきたマカオ愛国人士である。マカオ財界の親中派の後押しを得た共産党に対し、ポルトガルは中国の指定した日時に抗うことができなかった。