マカオが中国、ポルトガル両国から「必要ない」と言われた際、行政に頼ることなくカジノの資本力を背景にマカオの近代化を担った男、それがスタンレー・ホーである。巨額を投じ、返還前にマカオの水道、電力、病院、学校、道路、空港などインフラを整備した、文字通り現代マカオの礎を築いた伝説的人物・スタンレー・ホーとは一体どのような人生を歩んできたのだろうか――。
1921年、ホーは「買弁」と呼ばれる外資系企業の名家である何家の13人兄弟の9番目として生まれる。漢字名は、何鴻燊。誕生した際、本来透明であるはずの胎盤が真っ白だったため、占い師から「帝王の胎盤だ」と告げられ、その胎盤はホルマリン漬けにされ今でも何家の家宝として保管されているという。
後継者として寵愛を一身に受けて育ったホーは、何不自由なく幼少期を過ごす。スコットランド人、オランダ人、中国人の血が流れる容姿は気品に満ち溢れ、幼き頃からすでに風格を漂わせていた。だが、13歳の時、突如放蕩生活は終わりを告げる。父・何世光が投資に失敗し、ベトナムへ蒸発。母と妹とホーは、住む家に困るほどの貧困生活へと転落してしまうのだ。
ゴールド連合「聯昌公司」時代
ドラ息子だったホーは、この体験を境に帝王として目覚めていく。勉強に励み、奨学金を手にして香港大学へ進学すると、時代は太平洋戦争に突入していた。この時代のマカオは各国のスパイや商人が跋扈する極めて特殊な環境下にあった。ホーの叔父である何世文は早くから日本軍と親交を持つ親日派の人物であり、ホーはたびたび叔父とともに日本軍が集まる宴会へ顔を出すようになる。日本軍とのパイプを得たホーは、聡明で多国語を話せたことから日中英ポルトガルのゴールド連合「聯昌公司」に誘われ、日本軍への物資供給の仕事に就くことを任命される。
ホーは「聯昌公司」で働く際に、叔父から帝王学として二つの教示を受けている。「一つ、よく働くこと。二つ、手に入れた金を大事にすること」。
当時の交易路の海域には、日本軍の巡視船に加え、中国ゲリラ船、海賊などがひしめき、略奪や殺人事件は日常茶飯事だった。しかし、ホーは叔父から教えられた言葉を胸に、銃声が鳴り響き、乗船する仲間が命を落とす中、命がけで船の指揮役を勤め上げ、この危険極まりない大役を全うする。
プライベートでは、最初の夫人となる上流階級出身のポルトガル人弁護士・クレメンティアと結婚。公私ともにホーの視界が拓けていくことを示すかのように2年後、才覚と勇敢さが認められたホーはポルトガル総督府が聯昌公司の経営者と設立した貿易局供給部長に転職する。
避難民の大流入によって生じた物資不足を解消すべく、食糧調達の業務を一任する立場となり、アフリカの黄金、東南アジア・中国内地の食糧、油などを売買し、マカオでの存在感は日増しに高まっていった。
この貿易局時代において、苦楽を共にした仲間の一人が財務部長であった何賢である。後に”マカオの影の総督”と呼ばれマカオ内政の実権を握る何賢、そしてホーはともにマカオの食糧危機を救った戦友でもあった。ホーは食糧をマカオの住人に届けた際の大歓声が忘れられないという。
後にホーはCNNのインタビューでこう振り返る。「マカオは私を受け入れてとてもよくしてくれた。私はそこで富を手に入れることができた。私はマカオに大きな恩を感じている…」と。