恩讐の果てにあったカジノ経営
「聯昌公司」や「貿易局」の仕事を通じて大きな資金を得たホーは、戦争末期、23歳のときに日本海軍の廃油を精錬する工場を作り、自らの事業を運転し始める。それまでのコネクションと自身の努力の甲斐あって、1年間で100万ポルトガルドルを手にする成功事業となるが、終戦の憂き目とともに事業は衰退、仕切り直しを迫られることとなる。
そこでホーは、何賢の古いパートナーとともに大米洋行という商社を創立し、紡績品などの輸入業を開始する。米の字を社名に付けたのは、戦後社会はアメリカがリーダーとなって牽引する…対日貿易の際に便利だろうというホーの目論見からだった。
大米洋行は快進撃を続け、1950年に朝鮮戦争が勃発すると、金属と化学工学の分野にまで商売を広げ、財産は何百万マカオドルまでに膨れ上がっていた。ところが、そんな華やかな生活を黒社会は許さなかった。かねてから続いていたマフィアとの対立だったが、いよいよ生命が脅かされるまでになったホーは脅迫に屈する形で香港への移住を決心。「必ず戻ってくる」、黒社会へのリベンジを誓いホーはマカオを後にする。
ホーはただでは転ばない男だった。経済成長著しい香港の不動産市場に目をつけ、土地の売買で莫大な資産を築き、香港でも有数の大実業家にのし上がってしまったのだ。マカオでマフィアたちを打ち負かすには…香港にいても、ホーの心は愛するマカオにあり続けた。
臥薪嘗胆の末、彼が導き出した答えはマフィアとの繋がりが強い賭博業を根本から制覇するという仰天計画であった。卓球、水泳、ダンスなど多数の趣味を持つホーだったが、賭け事は元来好まなかったため、「手を出したくない事業だった」というから驚きだ。しかし、ホーはやると決めたからにはやる男であり、そして絶対に勝つ男であった。
マカオの独占経営権は数十年ごとに入札などで更新されてきた。当時は黒社会とつながりのある傅老榕と高可寧をトップとした傅家・高家がタッグを組み1961年に満期を迎える独占経営権を所有していた。当然、両家は継続更新を狙うが、そこに横やりを入れたのがスタンレー・ホーを筆頭とした「四天王同盟」だった。
メンバーは13歳のときに生き別れたホーの姉の夫、すなわち義兄にあたる広東出身の実業家“商売王”こと葉徳利。葉徳利のパートナーでかつて傅老榕の下で賭博場を仕切り、サイコロの目の音を聞き分けられる秘技を会得していたことから”鬼王”と呼ばれた葉漢。そして、香港財界の”不動産王”として名を馳せていた霍英東。
彼らはホーを代表者とした澳門旅遊娯楽有限公司(STDM)を設立し、見事に独占経営権の奪取に成功する。1962年、ホーは「新花園」の経営者としてカジノの創業記念式典を開催した。
従来組織の嫌がらせや脅迫は昼夜問わずだったが、ホーの毅然とした態度と強力なコネクションの前についに彼らは敗走する。当初は民間の賭博場がマフィアの圧力で場所を貸さない事態に陥っていたが、新花園の大盛況を目の当たりにして翻意する地主が増大していったという。同時に、結果としてマカオの治安に大きく貢献する形となったホーの独占経営権をポルトガル政府も歓迎、ホーは名実ともにマカオの王として君臨していくことになる。愛するマカオに恩を返す…ホーの抱く大望には金儲け以上に常にその気持ちがあったという。
独占経営権を取得した際の規約に従い、ホーは慈善事業やマカオ経済振興に巨額を投じていく。港湾の整備に始まり、香港を結ぶ高速船を日本製の最新型にシフトすることで3時間半かかった船旅を75分に短縮すると、さらに観光客は増大。ますますホーが経営するカジノは潤っていくこととなった。
そうしてホーは、彼の代名詞ともいえるカジノホテル「リスボア」を開業する。この欧米式の巨大ホテルの出現は、「マカオ=東洋のラスベガス」とイメージを刷新するには効果覿面だった。1970年代に入ると、400万人もの客がリスボアに宿泊し、毎日24時間客が途絶えることがないほど大盛況に包まれた。
もちろん連動してカジノの収益も上がり、純利益は税金以外に病院や水道局などの公共事業や慈善事業にも寄付する。金の雨が降り続ける限り、ホーのマカオへの愛情も止むことはなかった。
1981年、寵愛していた当時唯一の息子である猶光が交通事故のためポルトガルで亡くなることを除けば、ホーの人生は順調そのものだったのである。