貿易港からゲーミングの街へ
人とモノの流れを失ったマカオは、これを機にゲーミング(賭博)」と、借金を返せなくなった中国人が中南米に労働者として送り込まれる人身売買の街に変貌していく。
1847年にはマカオにおけるゲーミングの合法化が認可されていることからも、急激な変わりようが読み取れる。1872年に香港でゲーミングが禁止されると、その客がマカオへとなだれ込み、マカオはかつての経済の中心地であったことが嘘であるかのように、ゲーミングの街として賑わいを見せ、「東洋のモンテカルロ」と呼ばれるまでその色を強めていく。
清朝はゲーミングが横行するマカオの現状に歯止めをかけるべく注力したが、清朝自体の国力が低下していたこともあり追放することは最後までできなかった。実はこのとき主なヨーロッパ諸国とは通商航海条約を結んだ清朝だったが、どういうわけかポルトガルとは基本条約のない不思議な関係のままであった。そのためマカオという街は結果として治外法権になっており、清朝としてもどのような対処を下すべきか決めかねていた背景がある。そこに目を付けたのがイギリスだった。
当時、イギリスが目の敵にしていたフランスが東アジアへと勢力拡大を図っていたため、イギリスはフランスを牽制するマカオの番人として「ライバルには決してならない小国かつ親英国」ポルトガルに白羽の矢を立てる腹積もりがあったのだ。
1887年、イギリスの思惑通り中葡北京条約が締結されると、マカオは正式にポルトガル領となり治外法権が認められるようになる。ポルトガル人が初めてマカオの地に降り立ってから約350年、正式な大家が誰であるか分からないまま形成されてきた小さな街は、近代を前にして再度産声を上げるに至ったのである。