ゲーミングのメッカという一面を持つ一方で、マカオは早くからヨーロッパの文化や思想が息づく街でもあった。教育や文化を育む志があったため、中国人ブルジョアが集いやすく「国父」孫文が最初に医師として勤務していた場所もマカオであったほどだ。当時清朝は瓦解寸前、北京政権派と孫文ら広州政権派が激しくしのぎを削っていた背景を持ち、1911年に辛亥革命が起こると中国国内はますます揺れていく。同時期ポルトガルでは共和革命が発生し、国王が追放されるなどマカオを取り巻く両国はともに激動の中を生きていたため、マカオに目を配る余裕などほとんどない状況であった。
混迷を極める中、ポルトガルはマカオと中国の境界付近の埋め立て工事を独自に遂行し、蚕食化を図ろうとする。だが、革命に揺れる中国は全土に効力を持つ中央政権がなかったためポルトガル・マカオ当局の倨傲な行為に対抗する手段がない。そのような光景を目の当たりにした広州一帯の中国人が、マカオに対するナショナリズムを高めていくのは時間の問題だった。
先述したようにマカオ周辺には教養や知識が豊富な中国人ブルジョアが集まりやすいという背景があった。武力で地域を制圧した軍人が勝手に県長を任命する状況から脱却すべく、他エリアでいまだ清朝時代の科挙有資格者をはじめとした伝統的な人材が当選する中、マカオ周辺で行われた男子普通選挙では先進的かつ多様な人材が当選し、自治を大幅に向上させることに成功したのである。
1920年代初頭には、マカオに十数の労働組合が結成され、主要産業も造船、セメント、サービス業などアヘン戦争終戦時とは状況は大きく変わっていた。領主ポルトガルが共和革命の後、1926年に到るまでクーデターを26回も発生させる不安定さも重なり、遠い東の地にあるマカオは独自のコミュニティーを育むようになる。行政に頼らず優秀な人材を積極的な登用する慣習が、他地域よりも早い段階で整備されていたことは驚くべきことであろう。
いまだ中国内部が落ち着きを取り戻せない最中、1937年に日中戦争の火ぶたが切って落とされる。日本軍は広州付近にも進軍したため、マカオには大量の難民が流入、15万にまで回復していたマカオの人口は香港が日本の軍政下に入る4年後には50万人まで膨れ上がった。
このときポルトガル(マカオ)は心情的にイタリアに親近感を抱きつつも、イギリスの世話になった背景を持つため連合国寄りの中立国という立場を維持している。非常に複雑な内部事情、どちらにも理解を示す中立国、中国にあって中国ではない…歴史に紡がれたマカオだからこそ可能な数奇な立場は、あらゆる商人が跋扈するだけでなく、戦時下における各国のスパイが暗躍するシェルターとしても機能し、結果としてマカオは空前絶後の経済的繁栄を極めるに至る。これまでの文化と歴史が折り重なることで擬態性が生まれ、有象無象の人とモノが溢れかえる。
活気渦巻くマカオ経済の中にあって、より一層ゲーミング産業が華やぐことは必然だった。